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2010年7月10日土曜日

釉薬の景色/04

飲み干した器は今思えば龍門司の器だったと思い返す。全てがその土地の資源に囲まれて僕だけが異質だった。もう僕はいなくていいんだと思い、尚力が抜けた。鮎の香りに包まれた僕たちに、「これから川に行くのでよかったらご一緒にどうですか。」と誘ってくださった。その時の店主の透き通るような笑顔に見とれていた。もう僕は知らない土地に溶けていた。手の平の中で眺められた釉薬の模様はその時の溶け出した僕なのかもしれない。


頂いてから二週間ほど毎日のように使っている。器は日に日に手になじんでくる。朝はコーヒーに、昼は茶に、夜は焼酎を頂くことで一日を終えることにしている。そんな終日の儀式のために、青森で、龍門司と同じ登り窯を使い、須恵器の手法を再現して焼かれたという一合の片口を手に入れた。二つの焼き物は、当たり前なのかも知れないがまるで違うものであると静かに主張して同じ盆に乗っている。夜の儀式が気に入ったのか、手の平の中で、釉薬の景色は鈍い銀色から朝焼けのような金色に少しずつ変化し始めている。毎日違う表情を浮かべるひとつの器の周りで時は過ぎていく。

汗ばんだ僕たちの目の前に、硝子に盛られた氷苺が運ばれてきた。大きな男の真ん中に置かれた桃色の氷に僕達は少し照れた。小さなスプーンを口に運ぶと舌が瞬時に冷えて、ひと口ずつ汗が引いていく。程よい甘みが満腹感を少しふくらませて、興奮を静かに落ち着かせる。一つ一つの出会いがこの鹿児島のひと夏をより眩しいものにする。匙をすすめると小さな苺のジャムが乗っているのに気がつく。その苺は店の裏山で取れた木苺なのだという。裏山のひっそりとした葉陰に、はちきれそうな真赤な木苺が息を潜めている。透明なせせらぎの川の流れに逆らい、一匹の鮎がその岩陰を守っている。僕が都市に戻った今も遠くでじっと暗闇に潜んでいる。

釉薬の景色/01~04

2010年6月30日水曜日

釉薬の景色/03

東京を出て、三週間程経っただろうか。人気のない山中で一人過ごすことが多かった。街中から遠く離れるほど、街灯の数が少なくなり、一日に出会う人の数も減り、最終的に全く会話を交わすこともなくなった。夜は一人で真暗闇の山中にいた。誰もいない、知らない土地の夜に身を置くことが恐怖について思索を始める。目の前の暗闇から恐ろしい何かが飛び出し、襲われるのではないかと想像してしまう。人類は恐怖や不安をもって危険から身を守ってきたのだと自らに言い聞かせながら、強張った力を徐々に抜いていく。携帯用ストーブの火が眩しい。温かい飲み物を一杯飲むと気持ちも落ち着いた。眩しさに慣れた目が再び暗闇に馴染むと肉体は周囲に溶けていく。暗闇へ向けた視線を逸らさずにいると、徐々に目が慣れてくる。何者かに見えていたのは、ただの風に揺れる茂みで、人の泣き声に聞こえていたのは水のせせらぎだと、把握すると同時に恐怖を自分の内に発見する。恐怖は周囲のもの全てを自分に危害を加える敵にする。恐怖心に飲み込まれるともう何も信じることが出来ない。ただ震えて身構える。手に負えないほどの恐怖に包まれたとき、もう一度その土地を信じてみようと思う。此処に来た自分を信じてみようと思う。小さなテントに潜り込むと日中の日差しの熱も既に冷めていた。シュラフに包まれて目を閉じると耳に虫の音が心地良い。古来から夜になると人間は虫の音と共に床に就いたのだと想いを馳せ、重力に身を任せる。漆黒の夢の入り口で僕は鴉になって夜道を飛んでいた。恐怖と安堵と夢と現実が混ざり合って融け合い、夜の帳は翼を広げてその底へと降りていく。


太陽の光と熱に炙られて目が覚める。鳥の歌声は朝が来たのだと知らせる。昨夜あれほど怯え暗闇に包まれていた一夜のベースも太陽がその場所を明らかにすると気が抜けるほど朗らかな場所である。目覚めを促すようにテントをたたむ。通りかかった土地の年配者がおはようと微笑み、ゆっくりと脇の坂道を登っていく。湯を沸かし、コーヒーを煎れる。腰掛けた側には小花が健気に咲いている。テントに押しつぶされた青草は日光によって再生し始める。花粉を身に纏ったミツバチが耳の傍で羽音を鳴らし靴にとまった。見上げると晴天に恵まれている。朝の一服の束の間、昨日はどんな写真が撮影されたのだろうかと、脳内の記憶を一枚ずつ脳裏に投影していく。深い暗闇の中の仄かな光の記憶。路上の孤独で些細な光に日毎に目が慣れていく。光に対する感覚が研ぎ澄まされていくのを確かめながら、そのひとつひとつを手がかりに移動を続けた。山中の光と影は繊細で孤高だ。訪問者にとって見知らぬ土地は闇である。小さな街灯が道標となり、漆黒の闇を照らしている。振り返った旅路は、閉ざされた記憶の光が一筋マークされてこの場所と自分とをつなぎ留めている。無数の光に包まれた都市での日常生活の中で交わしたはずの会話の断片を思い返すと、暗闇に両親や家族の顔が浮かんだ。

今日も何気なく朝がやってきた。日が登り切る前に太陽に追い越されないように起き上がる。街はまだとても静かだ。窓からは風が吹いていて、遠くの方で何かの音が聞こえる。また今日が始まろうとしている。部屋はまだ暗く、昨日がまだ床で眠っている。コーヒーを煎れる一刻一刻、外の光が白く変化している。日に日に手に馴染むようになってきた器に入れた冷たいコーヒーが釉薬の景色に汗をにじませている。今朝はその釉薬が銀色に鈍く輝いている。その鈍い光に、旅の山中の暗闇を重ねた。

卓を囲んだ僕たちの前に一杯、一杯と注文した蕎麦が運ばれてきた。空腹と温泉と日光で乾いた身体に温かいかけつゆが全身に染み渡るようだ。一口頂いて顔を見上げると、川原氏と目が合った。「これは鮎の出汁だ。」という。味わったことのない不思議で新鮮な味覚の経験に五感が全身で喜んだ。ゆっくりと食べ終えると汗がにじんだ。何気なく再び品書きに興味を示して見渡すと「氷いちご」とあったのでそれぞれ注文した。鮎の出汁とは珍しいと会話を始めたところで川原氏の先輩であるという店主が囲んだ卓へと出てきてくれた。店主によると、出汁は鮎と椎茸からとったものであり、この辺りで昔から採れるものを使っているのだという。伝統だというと大袈裟だが、この辺りにはいりこも昆布もなかったので、自然と昔からそうしてきたというのだ。その方法がこの辺りでは馴染んだ方法で普通なのだと言う。確かに店でも特にそれを売りにしている様子はない。鮎は週に二度程、この山中で店主が自ら網で捕ってくるのだそうだ。なんと日本の奥深い、豊かな事、一杯の蕎麦に旅もひとしおだと感じ入った。

釉薬の景色/01
釉薬の景色/02

2010年6月25日金曜日

釉薬の景色/02

手のひらには少し大きいのだが、だからこそ落ち着いていて緊張感がある。手の隙間から釉薬の模様が垣間見え、美しい窓景のようだ。朝靄の中の雪山のような、山頂の残雪のような、また波打ち際に薄く海水を張った砂浜のような、いつか見た、どこにも無いような景色を手のひらの中に探す。それらの景色を手にしながら一服するこの上ない喜び。小さな器が旅へと誘う。


鹿児島は夏の終わりが最後の力を振り絞るような暑さだった。出会う人の額には汗の粒が光っていた。旅の途中に、ある友人と鹿児島で落ち合うことになった。落ち合う前日に連絡を入れると、加治木町におり、大学の同級生である龍門司窯にお世話になっているのだと言う。ところどころ撮影のために足を止めながら少しずつ加治木町へ向かった。加治木町に到着したのは深夜だったので、少し山の方へ入り適当なところで仮眠した。翌早朝、友人と落ち合うことができた。友人とは会ってすぐに休憩の小旅行と題して釣りに出かけた。まず観光を兼ねて桜島を目指した。灰の降る不思議な魅力の土地だった。今年は噴火が多いのだ、と立ち寄った土産物屋で土地の人が教えてくれた。桜島を見上げると煙を上げており、車には灰が積もり出していた。島を一周しながら釣り場を訪ねた。墨で黒く汚れた場所が良い釣り場だと聞いていた。桜島は土地ではミズイカと呼ばれるアオリイカの有名な釣り場なのだという。日が暮れるまで釣りと火山灰を楽しんだ。翌朝、垂水港迄南下して、釣りに精を出した。丁度二人分の空腹を満たすような釣果をあげ、夕飯にはそれを料理した。もう一泊、もう一泊とねだる友人に、もう釣りはいいじゃないかと嗜めても聞く様子がないので、諦めて釣り場付近に三泊ほどすることになった。お陰である程度のイカ釣りの技術と釣果を上げることができた。

加治木町に戻ると翌日は窯焚きの日だという。友人の荷をおろした後、龍門司窯に立ち寄った。この日、忙しく窯入れの準備をする川原氏と出会った。川原氏は準備で参加できないのだがと、知人の店へ連れてくれて、その夜は錦江湾で捕れた海鮮物をご馳走になった。旅の疲れを癒すには勿体無いほどの料理と土地の焼酎に程良く酩酊した。帰りになって店主が出てきてくれて、窯まで送ってくれると言う。窯に到着して一段落した川原氏を交えて焼酎を酌み交わした。それぞれが深く酔う前に、お開きにして翌日再会することになった。翌朝、川原氏が夕刻から窯焚きで忙しくなるのでと、それまでの半日、付近を案内してくれると言う。まず霧島に足を伸ばした。和気清麻呂が疲れを癒したと言う温泉へと向かった。湯は山道の傍らにぽつねんとあり、しばらくは誰も整備や入浴利用していないのか、枯れ葉とヘドロで覆われていた。そのあまりのワイルドさに友人が辞めようと言って即座に踵を返したので、同行者全員、自然とそうすることになった。付近に温泉がいくつもある恵まれた土地だし、地元に精通する川原氏が同行していたので、適当な温泉はすぐに見つかった。塩分を含んだ、いつかタール砂漠の西端で飲んだ湧き水のような塩味のする赤い湯だった。帰りの道中で古書店を発見し、物色した頃、丁度正午近かった。僕は龍門司窯の歴史が書かれた本を立ち読みし、川原氏は里見弴の全集の一冊を手にしていたと記憶する。

鹿児島では美味いものにも困らないが、知人が営む評判の蕎麦屋を紹介してくれると言うので、帰路の途中、国道をそれ山道に入りその店に向かった。地元の、付近の人々が利用するような、どこの町内にも一軒あるような、言葉は悪いが、いい意味で気取った様子の無い蕎麦屋らしい佇まいの店だった。座敷にあげてもらうと心底落ち着いた。蕎麦が評判なんだと聞いていたので、温かいかけつゆの蕎麦を注文し、同行した三人は新聞二誌を回し読みしながら、それぞれ言葉を交わしながら、注文を待った。その時、対座した川原氏の顔には窯入れの火によるであろう小さな火傷が無数にあることに気がついた。太陽の光と温泉のマグマと窯入れの火と店内の涼しさが、それぞれの旅路で交差していた。

釉薬の景色/01 
釉薬の景色/03

釉薬の景色

今朝、FIFAワールドカップにて日本代表が3-1とデンマークに快勝。深夜と早朝の狭間AM3:30のキックオフに合わせて昨夜は早めに就寝した。試合も終わり、目が覚めるのを通り越して興奮覚めやらぬまま、机に向かった。


仕事机の後ろに大きめの作業机があり、2010年6月25日現在、器が48時間程置いてある。先日訪れた鹿児島県加治木町にある龍門司窯の川原竜平氏より、突然仕事場に器達が届いたのだ。その器を机に並べて眺めている。その器の美しい事。川原氏からの手紙も無く、突然届いた器の心のこもっている事。この喜びを上手く言葉にできないでいる。そうして二日間は合間合間に器を手に取ってはその重さを感じ、眺め入っている。器達は龍門司の昇り釜の灼熱を経験し、くぐり抜け、今旅をして僕の仕事場を訪ねてきた。そして今ここに座り、僕に語りかける。

昨年の夏の終わり、東京では秋を迎えようとしていた頃に九州を旅した。ある時、十代の最後から二十代のほとんどの時間を費やした遠い土地に旅する事を止めた。ひと所に住み、自分の周りにある小さな変化の中に世界を感じ取る事が必要だと思い、東京に居を構えて新生活を始めた。横の移動を止めて、ひと所で自分自身へ潜る「縦の旅」を始めたのだ。縦へと潜る旅は僕にとって今迄のどんな過酷な旅よりも辛く厳しいものになった。この新しい旅を始めて四年間が過ぎようとしている。この旅の記録として、仮に「青い魂・三部作」として、鋭意を抱きながら制作を続けているが未完成である。

僕は今あまり幸せではない。ひと所にいるが故に露になり,逃げる事の出来ない日常の些細な事が億劫だ。思うように制作が進まない事も手伝って、日常生活が疎ましい。と同時にこれまで気がつかなかった小さな喜びや感謝に包まれている事も発見し、これまでの「僕の世界」は短い間にすっかりと姿を変えてしまった。また嬉しいことがやってくるだろうと回り道をしながら、日々、青い底に沈んでいる。

肉体を横に移動すると風景はその移動速度に合わせ、刻々と姿を変えてゆく。しかしやはりひと所に身を埋めても世界は姿を変え続けるのだ。その景色の移ろいは移動速度ではなく、自分自身そのものと等しい。僕はこの日常を「縦の旅」と呼ぶ事にした。しかし自分自身はあまりに浅く、、僕の「青い底」は想像した以上に頼りない。その底に、毎日潜り続ける事に耐えきれない日々が続いた。昨年の夏の終わりに、おそらくそんな日々を過ごす事から逃げたのだ。自分自身の小ささから眼を背けようと企み、撮影機材を車に積んで、日本の端へと逃避したのだと思う。今朝、龍門司の器にコーヒーを煎れ、奥深く輝いた釉薬の言葉にならない景色に、追憶のペンが乱筆を始めた。

釉薬の景色/02

2010年5月23日日曜日

K*MoPAという森

昨日は清里フォトアートミュージアム(K*MoPA)で開催されている「2009年度ヤングポートフォリオ展」を訪れた。僕が幸運にも購入作家のOBであるということで、K*MoPAの小川氏よりお誘いを頂いて、初めて訪れる機会を得た。同じくK*MoPAのOBであり、友人でもある中藤毅彦氏と都内で待ち合わせ、小さな旅を始めた。

K*MoPAへは都内から車で約三時間、気がつけば周りの景色に高いビルなども無い。東京の磁力のようなものが徐々に薄れていくのを背中に感じながら、話はつきないまま、気がつくと森の中へと到着していた。静かな森の中で、レセプションに訪れた人々の活気に際立ち、栗生明氏設計の建築物は座っている。エントランスに入ると天井からは光が柔らかく射している。ガラス窓からは木々が溢れて、森の奥を覗かせる。森をくぐり、到着すると、門を跨いで一旦は途絶えた森が室内に入ったとたんに再び甦る。室内にいるのに森の中にいるような建築体験だった。次に建築は建築物から解放する。館長の細江英公氏が建築の中央で来客の訪問を迎えておられた。

細江英公氏と初めてお会いした喜びと興奮も冷めないまま、早速展示スペースに向かった。展示スペースには世界中から集まった様々な「新しい写真」があり、目にしながら思索を大いに愉しんだ。全体を通して感覚的に先ず、アジアやアフリカのドキュメンタリー(この表現が的確かどうかはわからないが)がとても多いのだなあと感じた。そのことを上手く言葉にはできないが社会背景と関連付けて考えさせられた。貧困や飢餓、戦争の狂気にフォーカスした映像には生理的に眼を背けたくなるが、気持ちを抑え、留まって凝視しようと努めた。そこには展示を観察しに訪れた僕以上の作家の凝視があった。その凝視は現地の生活者の現状は何かと探るその地を訪れた作家の凝視なのではないか。これまで貧困や飢餓、戦争の狂気やその他ドキュメンタリー写真にもやはり疑問や問いかけといった凝視があった。しかし、今回の展示では現代を再認識する新たな発見があった。

それは現地の生活者である現地の作家が制作した写真の存在である。これまで海外のジャーナリストが現地に訪れ、撮影取材し、それぞれの自国に持ち帰るというドキュメンタリー写真が、現地の生活者がカメラを手にし、現地の生活者が現地を撮影取材していると言う事実の再確認だ。その現状はこれ迄ももちろんあった。訪問者と当事者の写真を並べてみると一見、貧困や飢餓、病や戦争の狂気を映像化した同じ言語で語られる写真のようだがその背景にある行為は全く異なったものである。「2009年度ヤングポートフォリオ展」はK*MoPAのこれ迄の大きな功績をもうひとつ超えて、双方の写真が同じ展示スペースに並んでいることで新たな視線や思索を発見することを問う。これ迄、刷り込まれていたドキュメンタリー写真と言うものは「こういうものだ」という認識を一新せざるを得ないのだ。自分の表現が上手くいい当てはまるかどうか不安であるが、現地で生活する作家の当事者の眼差しは、海外から訪問した作家と「同じ場」を伝えているのだが、当事者の写真には同情を跳ね飛ばすような確かな「生」があるのだ。一方、横に並べられた訪問者のドキュメンタリー写真が、ならば「生」ではないネガティブなものをフォーカスしているかというとそうではない。ここに大きな収穫があった。当事者の写真が「同じ場」に展示されている事によって、訪問した作家が、どのようにしても背負う事の出来ない現地にある責任から解放されるのではないかと思うのだ。そしてドキュメンタリー写真とは今も昔もこういうものであったのではないかと再考した。訪問者の写真には、背負う事の出来ない責任ではなく、訪問した作家の眼差しや「生」があぶりだされる。訪問者は何故その写真を制作したのかといった作家の背景がをどこまでも追求させられる。「お前は何者か?」と。そのことによって「同じ場」を伝えた写真がそれぞれの「生」を得て、貧富や格差を破壊し、「同じ写真」として均衡を計るのである。

同時に今回の展示では、写真や国の偏りも会場で指摘し、議論される事もあった。海外の出版物に応募の広告を掲載するデザイナーや編集する方々ともお話する機会があったが、ある表現や募集される国にも偏りを発見した時点で、軌道修正するという探求があった。K*MoPAが写真をコレクトする写真表現の幅は今後も広がりを見せている。今後も末席よりその広がりを望みたい。

今回の訪問を通して、様々な巡り会いに恵まれた。その感動の全てを僕の文章で伝える事は難しい。K*MoPAの深い森は僕の未熟な眼差しより遥かに大きい。またK*MoPAの森を旅したい。

2010年2月9日火曜日

日本写真集史 1956-1986 追記


写真評論家、写真史家である金子隆一氏の蔵書から日本の写真史そのものを垣間みることが出来る。 

まず日本と海外の写真環境の一面を比較してみたい。欧米において写真は、これまでオリジナルプリントやヴィンテージプリントと呼ばれる「写 真」そのものを作家の表現の最終的な出力としてきた。その場においては一点一点の写真が「写真」であり、「写真」の価値であると言える。写真はギャラリー を通して、売買され流通し、個人の家に、または美術館などの公共の場所に展 示される。そこでの写真集はそれら個々の「写真」を収蔵した小さな美術館のようなものであり、図録的なものとしての位置づけが強い。その時、写真集に収め られる「写真」はオリジナルに忠実な印刷が好まれる。おそらく「写真」は忠実な印刷を通して売買する価値そのものを提示する必要がある。写真集は一枚一枚 の「写真」がアーカイブされたものではあるが、「写真」そのものにアーカイブの意思は完結しているとも言える。




一方、日本では、写真家が写真集を作家の表現の最終的な出力としてきた。一点一点の「写真」は編集され、装丁を帯びて、一冊の本にまとめら れたものの一部である。版形、紙の種類、装丁やフォントを含めた一冊の本という物質が作家の意思である。作家によっては本の印刷用に「写真」をオリジナル プリントとは違った別の方法やニュアンスででプリントする事もあったようだ。そして一枚一枚の「写真」は一冊の本となり、最終的にアーカイブされることに よって、その一枚一枚に存在価値が追いかけるように生じる。そこで一枚一枚の「写真」を売買する事はあっても、 オリジナルプリントやヴィンテージプリントが売買される事や個人宅、公共の場で展示されることは、近年増えてきたとも言えるが、やはり少ない。日本では写真を売買する文化や、社会のシステムは、時間を経て根付いた欧米の文化や社会のシ ステムを模倣し、輸入したものであり、比較的新しく生まれたものであると言える。写真が売買される場が少ない日本の現状に嘆く作家も多い。

世界中を無視しても日本の「写真」は日本独自の発展を遂げ ていくものなのかもしれないとも思える。

本書「日本写真集史1956-1986」の三十年間にまと められた金子隆一氏の蔵書を紐解く事で、日本がどのように写真を育み、日本の写真は歩んできたのかを理解する手がかりになるのではないだろうかと思う。過 去と未来の狭間にいて呼吸する時、本書の存在が僕にとって、日本の写真にとって、360°の球体の全方向に進んでいくことの出来る不自由さから解放される コンパスの様なひとつの存在になるのではないだろうか。

撮影の現場で金子隆一氏の蔵書を並べた時、当時の作家の熱 に感染するような目眩を覚えながら、日本の写真史そのものを垣間みる気がした、そんな体験だった。




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