年末年始の東京。何処へも行かずに、ここにひとり過ごしている。街は冬木のように静止し、普段の喧騒とは別世界のように、静かに澄んでいる。こうして迎える東京での新春はまるで人のいない海岸にいて、潮の干満を眺めているかのようだ。年越しの時は、ただ過ぎていく。打ち寄せる波と去りゆく波はひとつのものである。遥か遠い沖とは、ここのことでもある。
際限の無ではなく、無という際限に包まれている。
∞
『風と波、散文の砂粒』
都市のビル群の谷間を歩くとき、見上げた建築物を前にして私の存在は微かだ。足元から頭上高く積み上げられた構造物は、きっと山から生まれたのだろう。私達は砂に囲まれて生きている。そうして知る私の小ささは心地の良いものだ。この都市の景観の異形に、削られた山々の稜線を重ねるとき、こうして都市に生きることを鑑みる。
ガラスの中で、時が止まるとき、そこにはひとつの山が顕れる。都市とはまるで砂時計の中に降り積もった砂山のようである。逆さにすると、砂山は跡形もなく吸い込まれていく。砂に埋れてしまわないようにと、私達は絶えず砂を掻いている。
私達は砂を集めて、砂山を作る。砂粒は全宇宙に反骨し始める。か弱き掌で硬く砂山の斜面を叩く。砂山が私達より世界を眺めるために。子たちが寂しくならないように。遠いところを忘れないように。子たちがここをより愛することのできるようにと。
耳を澄ますと、音粒が輝いている。ひとつひとつの音粒を運ぶ波。その波のはじまりは何処かと旅をする。たぶんとても遠いところ。私達の生まれたところより、遥かに遠いところ。父、母の誕生以前の私の生のそれよりもずっと遠いところ。
砂をすくうとき、掌のあいだから砂はこぼれ落ちていく。しかと握った砂を眺めては、崩れた世界の源流を探す。世界の全てを知ることなく、散りばめられた世界の欠片を集めている。世界とはなんだろうか。言葉にしようと試みるほど、世界はその言葉の影へと消えていく。
私達は砂の上に絵を描く。絵は風に吹かれて、刹那に模様を変化させる。山々は一刻として同じ山々でないことをその模様は知らせている。山は、滝となり、川となり、海を埋めている。砂はあらゆる定着を拒んでいる。
そうして私達はいつか砂へと還っていく。昨日と今日。存在と非在。形あるものと形ないもの。二つの間を生はぶらりぶらりと遊揺している。
∞
年末年始の東京は、まるで誰も居ないような世界だった。干支が入れ替わるとき、私はただここにいて、確かに生きた旧年が通り過ぎていくのを感じていたかった。砂のように音もなく。