2010年2月9日火曜日

日本写真集史 1956-1986 追記


写真評論家、写真史家である金子隆一氏の蔵書から日本の写真史そのものを垣間みることが出来る。 

まず日本と海外の写真環境の一面を比較してみたい。欧米において写真は、これまでオリジナルプリントやヴィンテージプリントと呼ばれる「写 真」そのものを作家の表現の最終的な出力としてきた。その場においては一点一点の写真が「写真」であり、「写真」の価値であると言える。写真はギャラリー を通して、売買され流通し、個人の家に、または美術館などの公共の場所に展 示される。そこでの写真集はそれら個々の「写真」を収蔵した小さな美術館のようなものであり、図録的なものとしての位置づけが強い。その時、写真集に収め られる「写真」はオリジナルに忠実な印刷が好まれる。おそらく「写真」は忠実な印刷を通して売買する価値そのものを提示する必要がある。写真集は一枚一枚 の「写真」がアーカイブされたものではあるが、「写真」そのものにアーカイブの意思は完結しているとも言える。




一方、日本では、写真家が写真集を作家の表現の最終的な出力としてきた。一点一点の「写真」は編集され、装丁を帯びて、一冊の本にまとめら れたものの一部である。版形、紙の種類、装丁やフォントを含めた一冊の本という物質が作家の意思である。作家によっては本の印刷用に「写真」をオリジナル プリントとは違った別の方法やニュアンスででプリントする事もあったようだ。そして一枚一枚の「写真」は一冊の本となり、最終的にアーカイブされることに よって、その一枚一枚に存在価値が追いかけるように生じる。そこで一枚一枚の「写真」を売買する事はあっても、 オリジナルプリントやヴィンテージプリントが売買される事や個人宅、公共の場で展示されることは、近年増えてきたとも言えるが、やはり少ない。日本では写真を売買する文化や、社会のシステムは、時間を経て根付いた欧米の文化や社会のシ ステムを模倣し、輸入したものであり、比較的新しく生まれたものであると言える。写真が売買される場が少ない日本の現状に嘆く作家も多い。

世界中を無視しても日本の「写真」は日本独自の発展を遂げ ていくものなのかもしれないとも思える。

本書「日本写真集史1956-1986」の三十年間にまと められた金子隆一氏の蔵書を紐解く事で、日本がどのように写真を育み、日本の写真は歩んできたのかを理解する手がかりになるのではないだろうかと思う。過 去と未来の狭間にいて呼吸する時、本書の存在が僕にとって、日本の写真にとって、360°の球体の全方向に進んでいくことの出来る不自由さから解放される コンパスの様なひとつの存在になるのではないだろうか。

撮影の現場で金子隆一氏の蔵書を並べた時、当時の作家の熱 に感染するような目眩を覚えながら、日本の写真史そのものを垣間みる気がした、そんな体験だった。




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